2009年07月02日

流れを知る人たち


八幡の流れ橋の色彩館には、宿泊施設があり風呂だけ利用することも出来るが、私的に気が行くのが館の別棟にある食堂である。


食堂とは古い言い方かも知れないが、この店の本店は嵐山の「天龍寺」にあるのだという。
天龍寺といえば臨済宗天龍寺派であって、足利尊氏の寺である。
その天龍寺を本店とする店が、タケミカズチ神をたとえ境内社としてでも祭る神社の側にあるのだ。


寺の人か、ご商売をされている人か、いずれにしても事情通の人がおられるようだ。
そして、このような関連めいた事は、飛騨天孫族をキーワードにする私には多く出会ってしまう。



昨年春に天龍寺には行った。それから、三女神社と尊氏の関係を調べた。


昨日は千円で「原色日本の美術〜密教寺院と貞観彫刻」(小学館)が手に入った。空海弘法大師の「念持仏」である不動明王さまの写真がある。これには驚いた。


私は大きい器を持って、真言宗・空海に新しく出会おうと決めている。
真言宗とて空海より以後、変わっているだろう。


秋篠宮は皇室に於ける真言宗との「パイプ役」であろう。


どこかに、闇の事情通もいるのだ。
しかし、事情通は闇ばかりでも無かろう。千光寺の「蛇」は正か蛇か?
いずれにしても、この男は「入る」と決めている。
イザ!
ニックネーム 無来 龍 at 16:26| Comment(15) | TrackBack(0) | 日記

2009年06月30日

タケ・ミカズチ


八幡の飛騨天孫族の末裔の痕跡を、私は石清水八幡宮が鎮座される前の地主神に見てきた。出雲神も合わせ祭ってあるからややこしくなるが、地主神を祭っていた人々は天のコヤネを祖先とする。


天のコヤネは東大阪になる平岡神社の祭神であり、長く祭神は山奥に安置されていたという。つまり、隠されていたのであり、その理由はと問えば、現在の平岡神社所在地の地名が物語っている。
いわく、出雲井町なる地名であって、出雲族の痕跡を伺わせている。



八幡に映画ドラマ撮影のロケーションで有名な「木津の流れ橋」がある。
流れ橋は、八幡市の南東にあり、最近この流れ橋付近に色彩館という施設が出来た。


この色彩館のある村に、神社があるが、現在の祭神は素戔嗚尊にされてあるが、元祭神は天照大神とタケミカズチ神である。
何故そういえるかと説明すると、神殿の左隣に、飛騨天孫族口承伝で明らかな八人の「子供たち」が祭ってあるからだ。

つまり、天照大神と夫・思兼命(飛騨では「おもいやり命」)の五人の息子たちと三人の娘たちである。ただし、「歴史」には、天照大神の子どもは五人の息子であり、三人の娘は素戔嗚命の子どもとしている。


この八人の子供たちは、素戔嗚命と天照大神の「うけい」によって生まれたとされるが、すべて天照大神と夫おもいやり命の子どもである。

この八人のお方の社が左隣にあるということは、現在素戔嗚尊が祭られている神殿には、神社創建当時どのお方が祭られていたかと考えればよい。明らかに天照大神であって、それ以外には有り得ない。


それを示すお社がある。天照大神の社は神殿に行く手前の右に、その天照大神の前にはタケミカズチ神の社があるのだ。


過日、図書館で、『山城綴喜郡誌(全)』(明治四十一年出版)を借りた。これを読めば「タケミカズチ神」が八幡の地におられる理由がわかる。
「…源頼朝義兵を挙し時、伊豆国三島の住人前田物部公宗なるもの、頼朝に従ひ、出陣軍功を立て、天下統一の後、…公宗へ恩賞として…」この地を与えられた。


伊豆国三島の住人が茨城県鹿島神宮の祭神を祭った。飛騨天孫族口承伝からいくと、初代大淡の上方さまの頃より、関東伊豆方面から東北へ開拓に降りている。

飛騨初代スメラミコトに三人の息子さまあり。
スメラミコトを引き継がれた家系は天照大神へとつづく。
山下住水分(みくまり)命の家系は、大やまずみ命、コノハナサクヤ姫とつづく。

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ニックネーム 無来 龍 at 08:56| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記

2009年06月29日

つづき

image/ryu-chan-2009-06-29T13:29:10-1.jpgimage/ryu-chan-2009-06-29T13:29:11-2.jpgimage/ryu-chan-2009-06-29T13:29:11-3.jpgimage/ryu-chan-2009-06-29T13:29:11-4.jpg〇高山の城へ行く途中にあった「福来博士記念館」の茶店


〇真言宗の仏様でしょうか


〇記念館の中の掲示板 山本先生の直筆のもの


〇「飛騨の里」です


※今回は私はカメラばかりさわっていましたので、携帯カメラではあまり撮影はしませんでした
これらの写真は「byまさえ」さんによるものです
ニックネーム 無来 龍 at 13:29| Comment(1) | 日記

つづき

image/ryu-chan-2009-06-29T13:17:48-1.jpgimage/ryu-chan-2009-06-29T13:17:48-2.jpgimage/ryu-chan-2009-06-29T13:17:48-3.jpgimage/ryu-chan-2009-06-29T13:17:48-4.jpgimage/ryu-chan-2009-06-29T13:17:48-5.jpg〇イタキソ神社の神殿の狛犬さん
可愛いでしょ


〇イタキソ神社


〇丹生川村で唯一「日抱宮」の名前を残すお社


〇丹生川村「千光寺」の入り口に咲いてた花。ピースサインをしてるみたいです
ニックネーム 無来 龍 at 13:17| Comment(5) | 日記

飛騨写真集

image/ryu-chan-2009-06-29T13:10:54-1.jpgimage/ryu-chan-2009-06-29T13:10:54-2.jpgimage/ryu-chan-2009-06-29T13:10:54-3.jpgimage/ryu-chan-2009-06-29T13:10:54-4.jpg〇バスが畳平展望台に着いたときは、このような雲の中です。


〇畳平にある「乗鞍本宮」

〇晴れてきたら、周りはこのとおり
ニックネーム 無来 龍 at 13:10| Comment(0) | 日記

2009年06月27日

飛騨日記〜最終


はい、長い飛騨日記にお付き合いいただきまして、ありがとうございます。


旅の最終日に彼女が、高山城付近に「福来記念館」を見つけてくれました。
そこは昨日の晩、あまりに星空が綺麗だったので外を見ていた際に、確か灯りが灯ったところ辺りでした。


私は彼女に導かれるまま、記念館に行きますが、野点の雰囲気をもった喫茶店の隣にありました。


福来博士は、いわゆる超能力を科学的に解明しようとされた人で、博士の念写実験は新聞に大きく取り上げられ、世論を大きく動かしましたが、同じ新聞にある日から攻撃されます。


博士は大学から追われるように身をひき、当時博士の実験を評価された高野山の僧の導きによって一時仏門に入られます。


福来博士を郷土の誇りと考えられた山本健造先生が中心になり、高山に福来博士記念館をと発起され、このような記念館の建物があるということでした。


私は記念館に入って驚きました。全然、このような建物が高山市内にあることすら知りませんでした。しかも、案内の掲示板の文章はすべて、山本健造先生の毛筆によるものだったのです。


山本健造先生はここに、最初に福来博士を高山市民に紹介する場所を作り、自らもこの場所に詰め、たぶん入り口あたりに座られて、来る人たちを案内されたのでしょう。
まったく驚きでした。


こうして私は、「旧の国府町」の飛騨福来心理研究所には行けませんでしたが、山本先生の最初の記念館に行くことが出来ました。つまり旅は、すべての出会いを用意していたのです。


それにしても、丹生川の千光寺と云い真言宗への結びつきです。次は明らかに高野山に行くのでしょう。もう、そこまで来ているようです。

野点の喫茶店でも蛇を見ました。私が話をしていると、庭の木に登っていたらしいシマ蛇が枝から落ちてきました。ここでも蛇でした。


蛇の象徴、私には思い当たるようにも思えますが、これはさすがに難解です。



千光寺には、「両面宿難」を最後の飛騨王朝の末裔とし、「敵」である大和王朝に滅ぼされたとの案内掲示板がありました。私もこの説に賛成です。


さて、真言宗との出会いは何を私に教えるのでしょうか。
ありがとうございました。
ニックネーム 無来 龍 at 20:54| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

円空仏から観音さま


旗鉾の探検が終わって、喫茶店で休憩していたら、それまでの緊張がとけた彼女から注文がきました。
「ねえ、近くに円空仏の展示をしている寺があるよ、龍さんがいつも言ってる真言宗のお寺だよ」


「へぇ〜どこどこ?」っと、予定外の行動となりました。しかし、ナビゲータの注文がなかなか難しく、あっち行ったりこっち行ったりで、やっと……やっと、寺に着きます。やれやれ。


私は書いておきますと、現在の真言宗に特に思い入れはありません。あるとしたら、衆議院京都六区は民主党の方であり、その人は同じ高校の出身者であって、実は親戚の子の同級生です。


衆議院議員の彼のブログに書いてあることなので、彼は高校生時代に私と同じ元校長先生に刺激を受けたらしいです。
洛南高等学校で元校長といえば有名で、この校長先生を通して真言宗を見てきました。


先生曰わく、「社会の雑巾になれ」も有名で、洛南高等学校出身者はみなこの言葉に何らか刺激されてきました。私とてそうで、校長先生の話しは常に具体的かつ説得力があり、僧は社会に出て尽くせと教えられたのです。


私は個人的には、松下なんたら塾は問題だと見ており、いまさら組織活動に何らの幻想もありませんが、真言宗の僧に対しても、それなりの不甲斐なさを感じてきました。


で、千光寺に行くことになりました。
山の奥の寺です。
「また、山登りかいな……」。
山門をくぐり水場に行くと、私が手荷物を置いた場所に蛇が暑いので涼んでいたらしいです。
「あっ!」と彼女が言うので、蛇はすぐに穴の中へ消えました。私も蛇はいまだにゾッとしますが、見なければ怖くありません。


「ほう…蛇とはな…」と思いますが、何と高山の城でもまた出会います。
最近は蛇を見ることは珍しく、去年かその前か、大阪の長居公園で見たきりです。


この寺の本尊も観音さまです。
飛騨天孫族と真言宗にただならぬ関係を認めている私には、「観音力」こそ必要な今の力だと思ってきました。
「そうか…観音さまか…」。


それから位山に行ったのでした。



高山に泊まって早く寝た私たちは、最後の思い出に朝市に出かけました。また出会いがありました。欲しかった作務衣が飛騨染めであり、しかもいい色のものです。


彼女にも染めのうわっぱりが見つかり、お店のご主人に「良く似合っている人は珍しい」と言われ、サービスをしてもらいました。何かもらいましたが、私は名前を知りま続きを読む
ニックネーム 無来 龍 at 19:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

九州ゆきを決められた「安の河原」へ


旅行最後の宿は高山です。宮川のすぐ側の宿を予約し、しかも、どうやら、飛騨天孫族が大会議をした「安の河原」あたりだと気づきます。

何から何まで、私的守護霊さまのお導きは完璧です。


旅行前から観音さまのお顔が浮かびました。これまで祭壇に置いてきた「白鳥」の置物のところに、「鶴は解き放たれた」のだから、何かを置きたい気持ちが強まっていたのです。


丹生川村を離れた私たちは、すぐさま飛騨一宮・水無神社に向かいました。三年ぶりの飛騨スメラミコト住居地跡であります。


屋根の銅瓦の張り替え寄付をされていて、私たちが名乗り出ますと宮司さんが、「八幡宮からおこしですか」と喜んでいただきました。


初めて水無神社内に参拝いたしました。神殿の中は美しく、二度目の参拝は正座して行うことができ、感謝、感激でありました。


神社内に流れ出るお水も土産にいただき、彼女は何よりもお水のお土産を喜びました。そして、いよいよが位山でした。


位山の麓、ペンションは前に泊まった場所です。駐車場があり、昼間は喫茶店もやっておられます。位山中腹あたりに牛たちが放牧されています。空は雲がゆったりで晴れ渡っております。


飲み物をすまし外に出ると、何やら鳴き声がします。
「あっ!あれはキツネの鳴き声だよ!」と彼女が喜びました。「へぇ〜キツネって、あんな鳴き声やったんや」「そうだよ!」久しぶりに彼女の晴れやかな声です。やっぱり、緊張していたのでしょう。


「前にここへ来たとき、ほれ、夜になると小さなキツネが散歩してたけど、奴かなぁ?」「そうだよ!きっと!」
また、キツネさんが鳴いてくれます。


「あ〜、ほんまや〜」


位山スキー場にある小さな祠から、位山スメラ御岩に向かってご挨拶です。今回は登れません。体力がありません(笑)。

その日はさすがに早く寝ました。さすがに疲れていました。
ニックネーム 無来 龍 at 14:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

丹生川村(元)の旗鉾へ


今回の旅行写真は、長い間しまってあったカメラを出して撮りましたので、あまりありません。

さて、旅行の四日目になります。
無事に乗鞍麓までバスで行けた私たちは、元来た道を降りて行きます。山を降りてくると旗鉾地区はすぐでした。


丹生川村旗鉾は、いわゆる乗鞍頂上への登山ルートの入り口であり、この旗鉾に昔、小学校の分教場がありました。
分教場というのは、地区に児童が少なく、小学校の機能を備えた小さな学校のことで、山本健造先生はここで教師として働かれていたのでした。


昭和10年といいますから、私の親父が生まれた年であり、飛騨の奥地の旗鉾地区は、さらに貧しい暮らしであったろうと、畳平の受付に置いてあった写真集を見て思いました。


しかし、貧しさと人間の暮らしぶりは違ったでしょうし、写真集の中では馬や牛や羊の放牧が行われていて、子供たちの表情も豊かでした。

旗鉾地区の目印はバス停でした。そのバス停のすぐ側に、石碑があって、ここからが乗鞍への登り口だとわかりました。さて、ここから、飛騨の言葉の語源になった「日抱き」の宮(神社)を探そうというのです。


池の周りに座り、池に映る光をじ〜っと見たそのことを、飛騨の人たちは「日抱き」と呼んだそうです。それから「日抱きのみたま鎮め」とも呼ばれ、飛騨の人なら誰もが池に集まったのだそうです。

そのみんなが集まる場所に祖先のお墓をつくり、後に神社が建てられていったようです。


ヒダは「日抱」からはじまり、後に飛騨となったのでした。つまり、日抱きの宮を探すことは、飛騨天孫族の住んだ住居地を訪ねることになります。


地図はありますが簡単なものであり、本に書かれたのは地区名であり、初めて行く私たちが行けるはずも無いのです。しかし、私は、「行ける」と信じていて、簡単な地図の道を入って行きました。


これからが私の、そう、力の見せどころだったわけです。
奥に入る道を見つけると、考えず車を走らせて行きます。
宿で神社マークに〇しるしをつけておきました。彼女はそれだけを助手席で見ています。


まず一番難しいと後で思われた「乗鞍神社」を見つけました。いえ、神社には行けませんでした。登り口が無く、草や木で繁っていて、登らない方がよいと現場で判断しました。


唯一の神社へのしるしは、道にあった一基の灯籠でした。
軽自動車で行けるサイズの道であり、神社跡に民間が二軒しか無く、たぶん続きを読む
ニックネーム 無来 龍 at 14:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

「み・たま」であります


その肉体は力強さが感じとられ、「そうだろう」と感じます。


意識だ。
魂だ。と、それも大切コトではありますが、やはり肉体の完成度を私たちは目指すべきであります。

このような板殿仙人にみられるような丹生川の里の人びとが、筋肉質の力強い人たちが、大昔の飛騨天孫族ではなかったでしょうか。


足のふくらはぎ、腕の筋肉、しっかりしたマナコ、気迫溢れる姿、大きな長い「ナタ」、大きな杖を握る手、


それがあってこその山の民ではありますまいか。


私の飛騨天孫族は、少なくともそう呼べる祖先たちは、こうした人びとであります。
力強い民が、祖先の言い伝えをしっかり守って、池の周りに集い心を鎮める行(ぎょう)をなりわいとした。


鍛えに鍛えた山の民が、九州に降下したのであります。
タケミカズチさまに象徴されるが如く、飛騨天孫族は強い民であったのです。
何を出雲族ごときに負けるはずはなかったのです。


であるから、蛇(本当の蛇さん、ごめんなさい)のように執念深い出雲族は、神武より十代待ってヤマトに乗り込んで来たのです。



飛騨の山々の神さんは、私たちにプレゼントをくれました。素晴らしいプレゼントでありました。
霧が晴れ、山々が姿を現してくださりました。方々の峰が現れたのです。


まだ寒い畳平で、私たちは山々の神さんに会ったような気がしました。霧の中、乗鞍頂上へ向かって作法をいたしました。我、飛騨天孫族の末裔たり。


私は心の中で叫びました。恥ずかしいなんてちっとも思いません。
「おじいちゃん、おばあちゃん、わしは今、ここに立ってる。ずっと、立って行くで」静かに深く、そう言い誓いました。ありがとうございます。
ニックネーム 無来 龍 at 10:53| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記